2009.08.01
さんま特別号さんま船
昭和40年代 小学生の私は秋がきらいでした。さんま船がたくさん入り、家業の廻船問屋は 早朝からとても忙しく、大人は子供の事などかまっていられないばかりか、子供の手も貸せ!という勢いです。学校に行く前に 母が作ったおにぎりを市場へ届けるのが仕事でした。全長500mほどの気仙沼魚市場の中をおにぎりと温めた牛乳を持って父や会社の人を探します。父たちは入港した船や入札(販売)に合わせて忙しく移動するため、なかなか見つかりません。見つからなかったと言って戻ると、母や祖母にものすごく怒られます。学校に遅れそうになり、泣きたくなります。携帯電話はもちろん無線もありませんから。
当時さんま船は入港して水揚げをし、いかに早くまたも漁場に戻るかが一つの大事なポイントでした。夜さんまをとって早朝から水揚げをし、すぐに氷や燃料 食料など補給し、船の整備をします。船頭さんは、クレープ生地のシャツに毛糸の腹巻 頭にはタオルの鉢巻。【さだちゃーんいるげぇ】大きな声でそう言って船頭さんが家の座敷に入ってきます。さんま漁は房総が発祥の地で房総や茨城、福島に優秀な船頭さんがいました。
母はビールを冷やし、生うに やカツオの刺身 さまざまな季節のものを出します。船頭さんはおいしそうにビールを飲み 市場から戻った父と漁場の様子など少し話して、あとは自分の腕枕で少し昼寝をします。ほんの短い休息です。昼過ぎには【親分 準備できました】と若い乗組員さんが迎えに来ました。
今は資源保護や生産調整のため 水揚げ後24時間の休漁とか取り決めがありますから、当時ほどではありませんが、さんま船が夜の操業で忙しく激務なことに変わりありません。先代も先先代も初さんまは神棚に上げてから少しずつ新聞紙に包んで近所に配りました。
嫌いだった秋は、血沸き心躍る季節となりました。今年も新ものの美しいさんまをいろいろに料理するのが楽しみでたまりません。